中学2年生のとき、家族旅行でイタリアに行ったのが最初。初めての外国で、ローマ・フィレンツェ・ヴェネツィアの華やかな街並みと、彫りの深い顔立ちをし堂々とした身のこなしの「違うひとたち」を目にし、この世界にこんなに美しい場所があったのか!と、ものすごい衝撃を受けました。後年アメリカやフランスにも行きましたが、イタリアで受けた最初のカルチャーショックには到底かないませんでした。わたしのイタリアへのやむことのない強い愛着は、この時の強烈な衝撃がいまだに原動力になっている気がします。
大学の卒業旅行で再びイタリアへ。ローマのスペイン広場近くの坂道を歩いているとき「将来ローマに住みたい」とふと思いました。それは希望的観測ではなく、将来を垣間見たデジャブのような確かな感覚でした。
就職し3年半大阪の会社で働いていた間、その感覚はずっと自分の中に「当たり前のもの」としてあり、揺るぎない目標でした。イタリア語を習い、イタリア関連の本や雑誌を読みあさり、学校主催の講演会やレストランのイベントなど手当たり次第参加し、とにかく日本で手の届く「イタリア」を猛烈に吸収しました。3年半後、100万円が貯まり、京都のイタリア語学校でもこれ以上勉強することがなくなり、同時に会社生活の限界にも達した時、ローマに語学留学をすることにしました。
‘98年10月にローマに移り住んでから、わたしの人生は急展開していきました。1か月後にイタリア人の恋人ができ、1年後、その彼の親戚の紹介で日本人コーディネーターの女性と知り合い、彼女のアシスタントとなり、TVや雑誌取材の仕事をゼロから教えてもらいました。仕事やプライベートでイタリアのいろんな町に旅をし、数え切れないほどの人と出会い、人が人をつないで展開していく出来事がありました。何もかも知らないことばかりで、体当たりでやってみるしかなく、かつてテレビで見ていた日本の俳優さんやスポーツ選手などがTVやCMのロケにいらしても感動する心の余裕もないほど、無我夢中で仕事を覚えていました。
日本側のリクエストをイタリア側がどうしても承知せず、胃が縮まるような経験はしょっちゅうです。一般の方への短いインタビューでも、あの頃は緊張して前の晩は眠れなかったりしました。そういったことも回数を重ねるごとに肝が据わり、同じ状況でも「ああまたか」と胃も縮まらなくなり、有名な方へのインタビュー前夜もぐっすり眠れるようになるのだから、経験とはすごいものです。
2005年秋にコーディネート会社を退職し、フリーランスのコーディネーター・ライターに。いまは京都とローマを行き来しています。
この仕事の素晴らしいところは、いろんな場所に行けて、いろんな人と知り合えること。こんなに素敵な仕事がほかにあるでしょうか!そして、毎回違うことを勉強させてもらえること。生ハムからバチカンまでさまざまな分野の取材があり、取材を通して、短期間ですがその人と深く関わることができるのはたまらなく面白いのです。イタリアは現在でもれっきとした階層社会であり、違う階層の人達の生活は交わることはありませんが、外国人であり、取材という名目のもと、いろんな階層の人達の世界を垣間見ることができるのも、この仕事ならでは。
また雑誌の場合は、現場に編集者さんがいらっしゃらないことも多いので、カメラマンさんとわたしでああしようこうしようと考えて撮った写真の出来が素晴らしく、美しい写真にわたしの文章が寄り添うときは幸せな気持ちになります。
いろんな会社、工場、職人さん、農家などを取材で訪れるうち、普通に売られているモノやアーティストの作品などがどのような理由で存在し、どういう風に作られていくのか、その「背景」に興味をもつようになりました。そこには必ず、人の人生の歩みの歴史が織り込まれています。
今は日本のTV雑誌のお仕事のほか、イタリアの雑誌にも寄稿しています。パスタ・ピッツァ・マフィアだけでないイタリア、スシ・サムライ・ゲイシャよりもっと深い日本と、双方向のより深い相互理解に少しでも役に立てればと思います。そうはいっても、実際お仕事をしているときは、自分がいちばん楽しんでいるのですが。
振り返ってみれば、何かに取りつかれたようにローマに来て、そこで大事な友人達や一生の仕事と思えるものと出会い、それらを通じてたくさん失敗もしながら、人や人生との関わりを学び、それはいまも続いています。ローマはわたしにとって、そこでわたしの本当の成長がはじまり、惜しみなく沢山のものを与え続けてくれる縁の深い土地です。(岡田直子)
↓夕暮れ時のサン・ピエトロ広場
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